サルトルの超越という概念について

サルトルは、「性質」という言葉を考察している。この語の意味については、ウェブ辞書 性質(せいしつ)の意味や使い方 Weblio辞書 - 言葉に次のように記されている。

『「1 もって生まれた気質。ひととなり。たち。「温厚な性質」

  2 その事物に本来そなわっている特徴。「燃えやすい性質」「すぐに解決がつくという性質の問題ではない」

[用法] 性質・性格 ――「熱しやすく冷めやすい性質(性格)」のように、人についていう場合には相通じて用いられる。◇「性質」は、人以外の場合でも、「水にとけやすい性質」のように、その物事がもともと持っている特性の意で使われる。◇「性格」を物事について使う場合は、その物事と他との違いをきわだたせるような特徴をいう。「議題と性格が異なる提案は却下する」』

 ただし、サルトルが使ったqualitéというフランス語の辞書に一番目に記載されるのは「品質」という言葉だ。国語の辞書によれば、品質とは「品物(商品・サービス)の質」のことである。この品質と性質という二つの日本語の意味にはかなりの差があるように思われる。

 そしてこの言葉には英語と同じ意味として「質」という意味もある。サルトル自身は日本語の語感で言うと「質」という意味で使っていると思われるが、日本語の質という語には質とは何? Weblio辞書 にあるように、

1 ものを成り立たせている中身。「質量異質音質均質硬質材質実質水質等 質特質品質物質変質本質木質良質

生まれつき。たち。「気質資質性質素質体質美質麗質

飾り気がない。「質実質素質朴

問いただす。「質疑質問」』

「ものを成り立たせている中身」というような意味がある。

 サルトルは次のように書いている。

「性質(あるいは品質、質と当てて読んでみる-引用者)とは、『このもの』(対自によって現前されている具体的な個物)が世界もしくは他の『このもの』たちとのあらゆる外的な関係の外でとらえられるときの、『このもの』の存在より以外の何ものでもない。性質(品質、質)は、あまりにしばしば、単なる主観的な規定と考えられた。」(サルトル存在と無』第一分冊人文書院p447)

 品質または質という意味でこの文章を読むと、いかにもしっくりしない。品質という言葉には「このもの」と他の「このもの」たちとの間にある性能や質の序列に関して、「単なる主観的な規定」ではなく、一定の基準に従った規定によって客観的な性能の水準という意味が含まれているからだ。また、単に「質」とすると、今度は、あまりにも抽象的でこれまたしっくり来ない。ここは、やはり訳者松浪が選んだ「性質」が適訳だと思う。このqualitéはドイツ語で言えば、ヘーゲルも使った性質(性状)(Beschaffenheit)に当たる。おそらくサルトルヘーゲルの考え方を踏襲してこのqualitéを使っているように思われる。

 上の文章は続く。「そしてその場合、その『性質-存在』〔性質であること〕は、心的なものの主観性と混同された。そこでは、諸性質の超越的な統一として考えられる一つの『対象-極』がいかにして成立するかを説明することが、とりわけ問題であるように思われた。だが、われわれがすでに示したようにかかる問題は解決不可能である。一つの性質は、もしそれが主観的であるならば対象化されることはない。かりにわれわれが諸性質のかなたに、一つの 『対象-極』の統一を投影させたところで、それらの性質のおのおのは、直接的には、せいぜい、われわれに対する事物のはたらきの主観的な結果として、与えられるくらいのものであろう。むしろ反対に、レモンの黄色は、レモンをとらえるときの主観的な一つのしかたではない。いいかえれば、レモンの黄色は、レモン(そのもの)である。さらに、『対象-x』がちぐはぐな諸性質の総体をささえる空虚な形式として、あらわれるというのも、やはり真ではない。事実、レモンは、その諸性質を通じてあますところなくひろがっており、またその諸性質のおのおのは、爾余の諸性質のおのおのを通じてあますところなくひろがっている。黄色いのは、レモンの酸っぱさであり、酸っぱいのは、レモンの黄色である。われわれはお菓子の色を食べるのであり、このお菓子の味は、いわば食物直観ともいうべきものに対してそのお菓子の形と色とを開示する手段である。逆にまた、もし私がジャムの壺に私の指を突っ込むならば、このジャムのねばねばした冷たさは、私の指に対するジャムの甘ったるい味の顕示である。或る池の水の、流動性、生ぬるさ、青みがかった色、波動性などは、それら相互を通じて一挙に与えられる。『このもの』(対自によって現前されている具体的な個物)と名づけられるのは、かかる全面的な相互浸透である。」(サルトル同書p447-p448)

 レモンという存在と酸っぱさと黄色という性質は相互浸透する。つまり、「性質とは、『そこに存する』の範囲内で自己を開示するその存在全体だというのだ。「対自は、自分がそれであらぬところのものを、性質によって、自分に告げ知らせる。(たとえば)この手帳の色として赤を知覚することは、対自がこの性質についての内的否定として、みずから自己を反射(反映)することである。(中略)性質は、たえず手のとどかないところにある現前である。」(サルトル同書p449)内的否定としての赤の手帳とは、他の多くの個物が持つ、それらの赤い色ではなく、他でもない、手帳の存在と相互浸透する赤い色なのだ。そしてその赤とはこの手帳そのものであるということである。「性質は、それがいかなる性質であれ、われわれにとっては、一つの存在として開示される。私が両眼を閉じていて突然吸い込む香りは、私がそれを、香りを放つ或る対象に帰するよりもまえに、すでに一つの『香り-存在』であり、決して一つの主観的な印象ではない。朝、私の閉じたまぶたをとおして私の両眼にさしこむ光は、すでに一つの『光-存在』である。」(サルトル同書p450)

 しかし、注意しなければならないのは、「香り-存在」、「光-存在」、「白さの存在、あるいは酸味の存在」、「性質-存在」と言っても、これらは断じて「実体に類する神秘的な支え」が与えられるものではない。「性質の在り方」は対自の在り方とは全く違う。つまり、これらの「性質-存在」は「脱自的」であるわけではないからだ。(サルトル同書p451)